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騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編

評価:4.5

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

ようやく読み終えた。
村上春樹作品が発表されるペースにはある程度おきまりのパターンというのがある。
中編『国境の南、太陽の西』(1992年)を経てからの長編『ねじまき鳥クロニクル』(1994、5年)。
中編『スプートニクの恋人』(1999年)を経て、長編『海辺のカフカ』(2002年)。
中編『アフターダーク』(2004年)を経て、長編『1Q84』(2009、10年)。
そして中編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)を経て、長編『騎士団長殺し』(2017年)。
間に短編集が入るが、中編の後に長編が来るというパターンは昔からある。
改めて言うまでもなく、これは割とよく知られている。中編がいわゆるリアリズム小説の系譜で、『ノルウェイの森』はこれに当たる。その後に続く長編を生み出す前にわき出る雲のような存在だと個人的には考えている。
長編を書くのは体力が必要で、大変な作業なので、基本的に中編と長編を書いている間は、その作品に集中しているらしい。そして、書き上げて出版されたものはほとんど読み返さないという。
今回の中編と長編を結ぶのは「色彩を持たない」名前である。『多崎』では、色の名前を持つ5人の旧友たちとの思い出を、色の名前がつかない(=色彩を持たない)多崎つくるが巡礼していく、という物語だった。
これに対し、『騎士団長』では、「免色」という際立った人物が登場する。彼もまた、まさに「色彩を持たない」名前だ(「色」の字は入っているのだが)。
また、多崎つくるが旧友たちの思い出を巡礼するのと同様に、「僕」も雨田具彦の家で不思議な経験を積む。この経験と自らの選択によって生きる推進力のようなものを得る、という意味ではこのふたつの物語はよく似ている。というか、それは村上春樹の小説で繰り返し登場するテーマでもある。
『騎士団長』は、これまでの長編と同じようなテーマ(妻の喪失、父親と子、抑えがたい暴力性)が繰り返し登場するが、さらにメタファーの重複性が強調されている。主人公は、妻(ユズ)と幼くして失った妹(コミチ)、そして免色の娘であるかもしれない少女(まりえ)、「騎士団長殺し」の絵に登場するドンナ・アンナが、主人公にとって大切な守るべき存在として登場する。それらは幾度も重ねられて描写されるが、それでいてそれぞれに個別の存在として描かれている。そしてその存在は、最終的にはまた別の女の子の登場によって引き継がれる。
第2部に入ってからの展開は、やや急ぎ足のような印象を受けた。第1部の冒頭に出てきた顔のない依頼人(そういえばそんな映画があった)と、その後の主人公の記述がいわゆる物語の目的地を明確にしていて、そこに向けて急いで駆け抜けたような感じだった。