マンガ、映画の感想をベースに、たまにいろいろ書いてます。


ひょっとすると自分もヒトスジシマカではないかと疑うということ

飲食の場がクラスター化する可能性が高いというのは、ダイヤモンド・プリンセス号や中国の家庭料理持ち寄り祭りでの感染爆発でなんとなく予想をしていた。

個人的には外での飲みは年明けからやめていた。それはたまたま帯状疱疹が出たからなのだが、いろんな飲み会に誘われてもほとんどキャンセルしていた。
その後、新型コロナが中国で蔓延する状況を見て、さらにダイヤモンド・プリンセス号の状況を見た。
その頃には既に、「感染しても無症状の人がいる」ということは明らかになっていた。

これがどれほど怖いかというと、デング熱で代々木公園の蚊を駆除したことを思い出せばわかる。国内でデング熱感染が出た2014年。代々木公園でヒトスジシマカの駆除が行われた。
蚊の行動範囲はそれほど広くないということと、駆除しようと思えばできる、という点が救いだった。確かに公園の側溝など、駆除するのは大変な作業だったと思うけれど、相手は所詮蚊である。刺されないように防御して、見つけたら駆除すればいい。重要なのは、「駆除するヒトスジシマカがウィルスを持っているかどうかは検査する必要もない」ということだ。疑わしきは全て駆除すればよかった。

今回のこの新型コロナウィルスは、残念なことに「症状の出ていない感染者」がデング熱でいうところのヒトスジシマカの役割を持っている。
そしてこの「ヒトスジシマカ」は自分の意思で広範囲に行動し、しかも駆除されることは決してない。卒業旅行で海外に行くし、送別会で飲み食い歌い、ナイトバー(久しぶりに聞いたな)で夜通し飲んで語る。大変厄介なヒトスジシマカである。
やみくもな検査はすべきではない、という説は確かに正しい。症状のない人までもを病床に入れてしまうと医療崩壊が起きてしまう。しかし、誰が感染者かがわからない状況では、誰を警戒していいかわからない。そして自分が感染しているかどうかもわからないから、感染の輪を断つことが難しい。

そう考えた末に辿り着いたのが、「自分が気づかないうちに感染しているヒトスジシマカかもしれないと考えて行動する」ということだった。

2月23日に、千葉県の40代の男性会社員の感染が確認され、発症後に広島、岐阜に出張したということがわかっていた。この例が、個人的には警鐘となった。ひょっとすると自分も感染していたとしたら、出張先に迷惑がかかるんじゃないか、と。さらに仕事で関わる可能性のある人に迷惑がかかるんじゃないか、と。この例では「発症後」だったが、無症状の人がいるのであれば、その状態で感染させないと言い切れるのか?
27日の夜、出張で訪れた静岡で3人で飲んだのが、家族以外との最後の会食だ。滞在中のホテルの朝食はビュッフェ形式だったが、自分は食べなかった。
この頃はまだ、日本の感染者数は230人ほどで、感染者数をダイヤモンド・プリンセス号の感染者数と合わせて報道するのは日本の感染者数を誇大に見せてしまっているんじゃないか、などとのんきなことを言っている人がいた頃だ。

これ以降、自分の2週間前の行動を辿れるようにし、さらに自分の行動が「自分が感染しているかもしれない人間として、後ろめたくないかどうか」を基準にして、行動するようにしている。

でも本当はそれでもまだ足りない。「自分が感染しているかもしれない人間」が本当に取るべき行動は、「仕事も含めて外出を自粛する」ことなのだ。

結局のところ、全ての人がそういう意識を持たない限り、このウイルスに打ち勝つことはできないのではないかと個人的には思う。もしくは、全ての人がウイルスにかかってしまって抗体を持つかである。その場合、たくさんの命が失われることになるのは、これまで世界中で現実になってしまっている。

そして、個人にその決断をさせることができる唯一の方法がロックダウンなのではないかと思う。
それくらいの危機感がないと、「やむをえない仕事」として出勤してしまう人を自宅に留まらせることはできない。
ヒトスジシマカの発生を抑えるために水たまりなどができないようにしたように、無自覚無症状キャリアが外に出ないようにするために今すべきことは何なのかを考えるべきである。

世界がロックダウンという劇薬を飲んでいるのに、「まだギリギリしのいでる」と言って決断できない日本は、二週間後には感染者数千人という事態になってしまっても不思議ではない。『鬼滅の刃』の鎧塚さんの言葉を借りれば、「判断が遅い」のだ。残念だけれど。

とか言いながら、やっぱり出社しないといけない現実がある。ある程度は在宅勤務で凌いでいるが、社外での会議などが発生すると出勤してしまう。ほんと、どうしようもない。