マンガ、映画の感想をベースに、たまにいろいろ書いてます。


『生きるとか死ぬとか父親とか』 第6話

 

 

第6話は「子供とか夫婦とか」。


子供の話題はなかなか難しい。かくいう私の家も、息子を授かるまでには実に10年かかった。というわけで、今回は少し自分の話を書いてみる。


結婚10年の間、子供が欲しくなかったわけでもないし、むしろ保育士だったかみさんも私も子供好きなので、欲しがっていた方である。しかし、だからといって簡単に授かるわけでもない。


その年、建売り物件で気に入った家があり、そこを購入することにした。この頃は子供が授かるかどうかはもう運に任せるかなぁと思っていた頃なので、小学校が近くにあるかどうかなんて調べもしなかったものである。


その年の春、家を買って環境が変わったのがよかったのか、かみさんの妊娠が発覚した。予定日は12月だった。


しかし、夏が過ぎて妊娠8ヶ月になった10月頃、かみさんの血圧が高くなり、胎児が危険な状態になるかもしれないということで入院することになった。


当時、すでに囲碁将棋の運営担当だった私は、かみさんが入院するその日、囲碁名人戦の現場に行くことになっていた。今でもよく覚えている。第35期囲碁名人戦第4局。井山裕太名人が3勝、高尾紳路九段が0勝で迎えた陣屋対局である。


血圧は高いものの、体調としては割と元気だったかみさんは、私を出張に送り出し、九州の実家から義母に来てもらって入院の手続きを行った。入院自体はそれほど問題なく、しばらく血圧と胎児の状態を見ながら観察していくという状況だった。


私は私で、呉清源先生が対局を見に来られるということで、準備にてんやわんやだった。対局1日目の夕方、呉清源先生の車椅子を担いで2階にある検討室まで運び上げたことをよく覚えている。


事態が急変したのは、対局2日目の昼頃。かみさんの血圧が200になったと連絡が入った。しかしかみさん自身は至って元気なもので、転院することになったというので、化粧をしていたら、救急車で行くのに何やってるのと怒られたと言う。どうやらこのまま転院先で緊急手術して帝王切開で出産するらしいと呑気にまるで人ごとのように話していた。


義母はすでに九州に戻っていたので、友人に来てもらって手術の同意書にサインしてもらい、私自身は対局の結果が出る前に荷物をまとめて陣屋を後にした。幸い、神奈川県秦野市なので、急げば夜には転院先の病院に着くことができそうだった。


病院に着く頃には手術は無事終了し、生まれたのは息子だった。出生時の体重は1,068g。すぐにNICUに入った。


同じくらいの週数で生まれた赤ちゃんの中には、肺の成長がまだ足りず、すぐに気管挿管する必要がある場合もあるらしい。眼球が十分に発達してなければ失明する危険もあるそうだ。この時に思ったのは、出産というのは母子ともに命の危険と隣り合わせの大変なことなのだということだった。


かみさんはその後1週間ほど入院し、息子は約2ヶ月、生まれてから二倍余りの体重2,200gを超えて退院した。と、書いてしまえばアッという間のようであるが、当時は毎日、何かあったらどうしようと不安で仕方なかったものである。今ではむしろ平均体重よりもやや重いくらいの健康優良児である。


と、そんなわけで。


ドラマの話に戻ると、今回の話はジェーン・スーの家族にとっては割と重い話である。子供が欲しくてもなかなか授からない家がたくさんあることを身に染みて感じているので、なかなかに心に響く回であった。ごく自然に見える日常でも、目を凝らして見つめてみると、発見することがなんと多いことかと思う。


子供が元気でそこにいるというのはとてつもない奇跡なのだ。そして、子供の話題というのはやはり難しいものだと思うのである。