マンガ、映画の感想をベースに、たまにいろいろ書いてます。


『生きるとか死ぬとか父親とか』第9話~第12話

『生きるとか死ぬとか父親とか』の心髄は第9話「過去とか娘とか」からだと言ってしまって構わない。この物語の中で、ジェーン・スーと(トッキーではなく、敢えてジェーン・スーと書く)父親が語ってきた母親は、彼らによって神格化された母親像だったと彼女は言う。父親との対話の中で、ジェーン・スーの記憶の中に封印されていた両親との物語が、第9話から堰を切ったかのように語られる。

父親がC型肝炎で入院していた頃、母親の胃もたれが気になり始め、それが実は癌だったことがわかる。ジェーン・スーは、それぞれ別の病院で入院している両親の見舞いを交互にしていくのだが、母親の癌という事実を受け入れられない父親の心は壊れ、不安定になっていく。

このドラマの中で度々挿入されていた入院中の父親を見舞う不倫相手の女性は、この最中に現れるのだった。

既に断絶しそうだった父親と娘だったが、この一連のできごとの後は坂道を転げ落ちていくように破綻していく。このドラマは娘のジェーン・スーの視点で語られるのだが、時折父親の見せる表情の中に、母親への想いが激烈に見てとれる。一方で、母親への愛がありながらも、不倫相手の女性もいるというのがまた複雑である。

だが、おそらくはこれがこの父親という困った人格の本当の姿なのだろう。彼の中では母親への想いは本物であり、かけがえのない存在でありながら、不倫相手の女性にもまた頼らざるを得ないのだろう。ジェーン・スーという人が不倫に対して猛烈な拒絶や嫌悪を見せるのは、まさにこの父親という存在があったからに違いない。

心に強く残ったのは、母親を演じる富田靖子が『ひまわり』について語るシーン。ソフィア・ローレンの悲しい物語を自分のことと重ねながら、報われない人生を噛みしめるのだ。このひまわりが咲いていたのは、今のウクライナのキーウの南だという。改めて、『ひまわり』は今観るべき映画なのだと思った。このドラマが制作された2021年には、一年後にこのような侵攻が起こるとは思えなかったものだが、今の我々は、この『ひまわり』をロシアのウクライナ侵攻とは切り離せないものとなってしまった。だからこそ、この作品を観るのは今だと言えるのかもしれない。

母親が好きな花が白く、不倫相手の女性が持って来る花が赤いのは、このドラマでたびたび対比的に描かれるのだが、母親が死の目前で思い描いた映画のシーンが黄色いひまわりだったことは、なかなかに印象的だ。

というわけで、第9話からは一気に最終話第12話まで観た。『生きるとか死ぬとか父親とか』のエッセイ集についても、読むのが楽しみである。