海辺のカフカ〈上〉 海辺のカフカ〈下〉(Amazon)
「海辺のカフカ」を読み終わってもう一週間経つ。
なんだかいろんなイメージがごっちゃになって頭の中でグルグル回っているような感じなのだ。
物語としては簡単に言ってしまえば面白かったんだが。単純にエンターテインメントとして楽しめた。
ん〜。なんというのかなぁ。
登場人物がかなりくっきりしている。
それだけははっきり断言できる。
※以下、ネタばれも含みますので未読の方は要注意です。
村上春樹さんのインタビューが「海辺のカフカ公式ページ」に掲載されているのだが、ついさっき見たら最終回がアップされていた。
インタビューの中で、春樹さんは「ボイスの書き分け」ということを盛んに話している。
また、読者からのメールの返信としても、「いろんなところに僕の影がいる」というようなことを言っている。「ひとつのものや人には、もう託せなくなってしまったのだ」これはかなり核心をついている一言のように思える。
これまでの村上春樹作品は、多くの場合、「僕」の一人称の視点から大きく外れることはなかった。
「僕」は言うまでもなく、村上春樹自身の投影であり、読者は「僕」の視点を通して物語に入っていく。
しかし、「海辺のカフカ」では、一人称で語られる奇数章と、三人称で語られる偶数章の書き分けを明確にしている。
そのおかげもあって、それぞれの人物の肖像がくっきりし、俗にいうキャラが立った状態になっている。
しかも、一人称の「僕」は、今までのように村上春樹自身の投影ではなくなっている。
そこにいるのは十五歳の少年で、もちろん村上春樹自身の十五歳の頃の一部分が投影されてはいるものの、飽くまで一部分に過ぎないのである。新たなキャラクターとしての十五歳の少年。それが「僕」という形を取ったのである。
逆に、多くのキャラクターの中に村上春樹自身の投影が含まれているともいえる。
その上で、それぞれのキャラクターがそれぞれにフィジカルにインディペンデント(インタビューより)に書き分けることができた、としている。そこが重要である。
でも……。とぼくは思う。
それって普通のことなんじゃないの? と。
小説を書く上で、キャラクターを書き分けるのは重要なことである。
それぞれの存在には、作者の意図や作者自身の投影が現れる。その上で、フィジカルにインディペンデントであるように描く……それって小説を書く上で最初に学ぶタグイのものだと思うのだが(笑)。
まぁ、一般的な話をしたところで村上春樹の世界はもちろん語れないのだけれど。
もちろん、高橋源一郎だって安部公房だってドストエフスキィだって語れない。それはわかってる。
別にいいんだけどね(笑)。
ともあれ。
今回の作品がこれまでの村上春樹の作品と大きく違うのは、キャラが立っているということだ。
これまでの作品もワタヤノボルだの羊男だの鼠だのが出てきていたわけなのだが。
春樹さんの言葉によれば、分離性というのがきっちりしていないということだそうだ。
つまり、ワタヤノボルも羊男も鼠も、ある部分では僕と繋がっているということだ。
しかし、それはむしろ、今までの村上春樹的世界の共通のテーマのようなところだったように思う。
世界は繋がっている……。
全然関係のないようなものが、どこかしらで繋がっている。その象徴として双子だの分電盤だの井戸だのが出てきたと思っていたのだが。
読者は「僕」の視点を通して物語を読み進めるうちに、自分自身もその世界と繋がっているという安心感を感じるのである。「僕」が失ったり損なわれたりするたびに、我々も何かを失い、損なわれ続ける。そして、「僕」が回復するとともに我々も現実の世界の中へ戻っていく……。
それはいわば村上春樹世界の契約のようなものだと思っていた。
そういう意味で言えば、この「海辺のカフカ」はかなり異質な感じがする。
僕の存在は飽くまでリアルで硬質で潔い。受動的ではあるが、なんにせよ自分の足で物事に立ち向かっていく強さを持っている。
ナカタさんはご存知のように、あんな感じである(笑)。星野くんはかわいそうなくらい平凡でありきたりだけど、涙が出るくらいイイ奴である。
彼らの中に、これまでの村上春樹世界で感じられる同一性は見受けられない。どこかで繋がっていると思わせる部分は見当たらない。
というより、随分丁寧に分離させられている。
独立(インディペンデント)しているというよりむしろ、孤立(アイソレイト)していると言っていいくらいである。
それなのに、ナカタさんと星野さんはわかりあうし、僕の世界に影響を与えつづける。間には甲村図書館があり、大島さんがいる。
けれど僕とナカタさんは永遠に繋がらない。
これははっきり言って大きな変化だと言わざるを得ない。
でも、もしかすると現実の世界そのもののあり方に似ているのかもしれない。
自分とは直接関係のない(繋がっていない)人々の影響を少なからず受け続けなければならないのだ。
今回の作品は、実は村上春樹の昔からの読者の中では賛否両論なのだ。
それはもしかしたらこの部分に起因するものなんじゃないかなぁとぼくは思う。
もちろん、きっと原因のひとつに過ぎないのだけれど。
追記:
そういえば、「海辺のカフカ」の中で、「僕」と明らかに繋がっている人がひとりだけいました。
大島さんの兄です。
彼だけは、どう考えても「僕」と繋がっています。