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問題作といわれていただけのことがあります。
よくこんな映画をアメリカが許したなと思うくらいです。
コロンバイン高校で起こった高校生による銃乱射事件の背景や、アメリカという社会の持つ危険性を、マイケル・ムーアの強引ともいえる手法で撮ったドキュメント映画です。
コロンバイン高校で乱射事件を行う2時間前、少年たちは「ボウリング」をやっていたという。しかし、彼らをとりまくアメリカ社会は原因を「ボウリング」ではなく、「暴力映画」や「ゲーム」、そして「パンクロック歌手」の責任にしていく。
その背景には一体何があるのか?
銃がすぐに手に入る国柄がいけないのか?
しかし、お隣のカナダでは1,000万人の人口に700万の銃が普及しているという。しかし、カナダではアメリカのように銃による射殺事件はほとんど起こっていない。
では一体何が違うのか。一体何がいけないのか。
その答えのひとつとして、マイケル・ムーアはアメリカ社会の持つ「恐怖心」を挙げている。政府とメディアによる「フィアー・コントロール」であると。
日常のニュース番組や犯罪者逮捕劇の中で煽り立てられる犯罪者の恐怖。アメリカは常に、国内にいる異人種(映画の中では主にBlack Male)や国外の中東への恐怖心を煽り立てる。
そしてその恐怖心を克服するために、アメリカ人は銃を枕の下において玄関に鍵をかけるのだ、と。そしてブッシュは中東にミサイルの雨を降らすのだ、と。
これは確かに真実だと思う。
現に、ブッシュはビン・ラディンやフセイン、そしてキム・ジョンイルを敵と見なし、その体制を最新鋭軍備で叩き潰そうと煽り立てる。
それはちょっと乱暴すぎるんじゃないか? というメッセージがそこかしこに織り交ぜられている。
フセインにしろ、ビン・ラディンにしろ、元々はCIAが国外での地元武装集団として育て上げた集団の長ではないか、と。飼い犬が手を噛んだといって、アメリカは飼い犬の始末を最新鋭の国際軍隊をもって叩き潰す。
確かに、アンチ・アメリカ側がテロリズムに訴えるのはいけない。が、彼らにその武器を与えたのは、元々はアメリカ自身なのだ、と。
この提言には是非耳を傾けるべきだと思う。
しかし、マイケル・ムーアの映画手法に関しては、イマイチ納得いかない部分も多かったのも事実。
Kマートに置いてある銃の弾丸が多すぎるといって、コロンバインの被害者たちをつれて抗議するシーン。正直に言えば、あんまりいい方法とは思えない。
また、銃擁護団体の会長の家で、6歳の少年によって射殺された少女の写真を置いてくるシーン。はっきりいって趣味が悪いと思ってしまった。
確かに、Kマートの銃弾はあまりにも規制がなさすぎるし、銃擁護団体の会長の言動はあまりにもひどすぎる。
しかし、それに対して抗議する手段はもっとほかにもあるだろうと思う。
そもそも「アポ無し取材」というのがあまり有効な手段ではない。日本のあのプロデューサーを思い出してしまうからかもしれないけれども。
この映画を観て思うのは、やはり日本の社会のことだ。
確かに銃による犯罪はアメリカほど多くはない。とはいえ、近年の少年凶悪犯罪、年間3万人にも上る自殺、決して安全な世の中ではなくなってしまっている。
その背景には一体何があるのだろう。
そういう観点で撮られたドキュメンタリー映画が観たくなった。