「イマドキ、わかりやすいテキストなんてミミズのエサの替わりにもなりやしない。わかりにくいテキストがフクロウの肩こりに効かないようにね」
講義の最後に捨てられたそのセリフを、頭の中で反芻してみる。
ミミズのエサですか。
フクロウの肩こりですか。
それが一体何のことを言っているのか。ハルには想像もつかなかった。想像しようとも思わなかった。
「ピコリコリン♪」
携帯が鳴った。相変わらずタイミングがいい。ラクダからのメールだ。まるでハルの受講している講義が終わったのを見計らって送って来てるみたいだ。ひょっとしたらそうなのかもしれない。
ハルはちょっと周囲に目を配ってみた。どこかの柱の影からラクダがハルの様子を伺っているかもしれない。ラクダならやりかねない、ハルは意地悪くそう思った。
Subject: From: ラクダ
ハル、元気?ラクダは元気。
今日も砂漠は晴れです。
でもラクダのコブには水たっぷり。
準備は万端。
今日は隣のオアシスまで地雷を運ぶのだ。
今度のはスゴイよ。
ビン・ラディンのヒゲも吹っ飛ぶよ。
破壊力抜群。
そういえばX-GUNってどうしてる?
おばちゃんネタ好きだったんだけどなぁ
やれやれ。ハルはため息をついた。ラクダのメールはいつもこんな感じだ。何が言いたいのかわからない。けれども微妙に気になる内容なのだ。ある意味、今ハルが大学で取ってるどんな講義よりも面白い。
ハルは、返事を打とうと一瞬考えて、お昼ご飯を食べてからにしようと思った。食堂がそろそろ混む時間なのだ。早く場所取りをしに行かなきゃ。どうせひとり分の席取りだけど。
ハルは、足早に食堂へ急いだ。
★★★ ラクダとの出会いは間違いメールがきっかけだった。
もしかしたら間違いを装ったのかもしれないが、そんなことはハルにとってはどうでもいいことだった。
ハルには友達と呼べる友達はひとりもいなかった。ラクダからの突然のメールは、ハルにとっては嬉しい部類のできことだった。
ハルは高校まで大阪の小さな町で育った。大学進学にあたり、東京の武蔵野に引っ越してきたのだが、右も左もわからない状態だった。
大学に通い始めたものの、友達はほとんどできなかった。もちろん、挨拶を交わすくらいの友達はいたのだが、昼食を一緒に食べるほど親しい友達はいなかった。それは、多感な年頃の女の子にとっては重大な問題だった。
だが、ハルにはちょっとしたコンプレックスがあった。
面と向かって言われたことはなかったが、ハルはそのことが気になって、友達を作る気分にはなかなかなれなかった。
それがどんなコンプレックスだったかはここで書くことはできない。それはハルから書いてはいけないと言われているからだ。それについては一切触れないことが、ぼくがここでハルについて(もしくはハルとラクダについて)書くための唯一の条件なのだ。
だからぼくはハルの抱えるコンプレックスについては一切書かない。
ただひとつ言えることは、ぼくから見ればそれは大した問題のようには思えないということだ。ハルのコンプレックスに比べれば、鈴木宗男の言動の方がよっぽど問題だ。
だが、このことについてはもう既に随分時間をかけてハルに言って聞かせたけれど、「それは結局自分自身の問題なの」だ。このことについて、ハルは正しい。コンプレックスは所詮、自分自身の問題なのだ。少なくとも、ぼくとハルにとって。いや、ぼくとハルとラクダにとって。
★★★ 話が逸れた。元に戻そう。
何について書いてたんだっけ。
そうだ。ラクダとハルの出会いだ。
ラクダからの初めてのメールは、五月のゴールデンウィークが終わる頃に届いた。
実際、のどがカラカラなんだよね。
所詮無理なんだよ。最初っからわかってたけど。
みんなも本当は気づいてるはずなのにね。
やだやだ。愚痴っちゃったよ。
それはそうと、今夜は月がキレイです。
ホラ。ちょっと見上げてみ
ハルがそのメールを読んだ後、空を見上げてみたのはもちろんのことだ。そこには大きな月が膨らんでいた。ハルはその月を見上げてちょっと息を呑んだ。そこにそんなに大きな月が浮かんでるなんて、全く気づかなかったからだ。
そして、ハルはラクダからのメールに返事をすることにした。
本当のことを言うと、ハルは携帯のメールなんて使い方すら知らなかった。メールを出す友達がいないのだから当然かもしれない。
ハルが知っていたのはメールの見方だけだった。そういう意味では迷惑メールも捨てたもんじゃない。少なくともハルにメールの見方を覚えさせるくらいの役には立つのだ。
ハルは、その夜家に帰ってから、携帯の取り扱い説明書を読んでメールの打ち方を調べた。説明書なんて読むのは決して好きではなかったが、どうしてもそのラクダからのメールには返事をしなければならないと思っていたのだ。
そのおかげで、返事を打つのはかなり時間がかかってしまった。苦労してハルが打ったメールは、こんな感じだった。
月、きれいでした
ありがとう。
でもメールの宛先間違って、届いてましたよ
ハルより
「ハル」という名前を名乗ったのは、昔観た映画の影響だった。メル友なんて言葉がまだこの世に生まれてなかった頃の映画だ。パソコン通信のチャットを通じて知り合ったふたりの間にやがて恋が生まれるという話。
その映画を観たときは、自分とは全く別世界のお話だと思ったものだ。
ちょっとした期待と大きな不安を抱いたまま、ハルはメールを送信した。
生まれて初めてのメール。ハルはちょっとばかり興奮して歯を磨いた。
★★★ その夜、ハルはいつもより少し嬉しい夢を見たような気がした。けれど、目が覚めてみたらかすかな余韻以外は全く覚えていなかった。
ハルはちょっとばかり肩を落としながら歯を磨いた。
歯を磨きながら何気なく携帯を取る。そして、ラクダからのメールの返事を見つけてまた少し興奮した。