マンガ、映画の感想をベースに、たまにいろいろ書いてます。


第2話 「月と映画とハルの手帳」

Subject: 月はどっちに出てた? From: ラク
ハルへ。月はどっちに出てた?

結局のところ、あて先なんてものが何のためにあるのか知ってる?

黒ヤギさんのためなんだよ。ぶっちゃけた話。

黒ヤギっていう奴はどうしようもないね。

その点、ぼくはラクダなんだ。

ラクダにはあて先なんて必要ない。

いいかい、必要としないんだ。それこそ全く、無洗米に水洗いが不要であるのと同様に、だ。

必要なのは少しの水と、バケツ一杯の思いやりだけなんだ。

そこんところ、みんな勘違いしちゃうんだよね。いつも。

まったくもって由々しいことだ。

ところで、『月はどっちに出ている』って映画知ってる?

岸谷ゴローとルビー・モレノが出てた奴。

あれ好きだったんだよなぁ。

タクシーっていうのはきっとラクダみたいなもんなんだよね。

そういう誰も教えてくれないようなちょっと大事なことに気づかせてくれた映画だった。

そんなわけで。またメールしてもいいよ


 ラクダのメールの内容は、ハルにとっては今ひとつよくわからなかった。

 あて先がなぜ黒ヤギに必要なのか、タクシーがなぜラクダみたいなものなのか。

 そんなことを考えていると、額の真中あたりがかゆくなった。難しいことを考えだすと、ハルはいつも額の真中がカユくなるのだ。

 それにしても、とハルは思う。

 最初にメールしてきたのはラクダの方なのに。「またメールしてもいいよ」っていうのはおかしい。

「絶対におかしい」とハルは髪の毛を梳きながら思った。

 そして、今日の髪飾りの色は黄色にすることに決めた。

★★★

 ハルは映画を観るのが好きだった。

 といっても、映画館にわざわざ出向いて観ることはほとんどなかった。

 駅の階段を降りてすぐ脇にあるレンタルビデオショップ・マリオで、彼女は毎日のように映画を借りた。

 ハルは、ビデオをレンタルするときに必ず守るちょっとした決まり事を持っていた。

 「一回に借りる映画は一本だけ」

 「新作映画は値段が高いので、一週間レンタルになるまでは借りない」

 「どうしても借りたい映画はその限りではないが、なるべく月に一本以内に抑えること」

 「アダルトビデオだけは、観てみたくても絶対借りちゃいけない」

 ぼくから見れば馬鹿げた決まりだとは思うけれど、ハルはこの決まりをきちんと手帳の白いページに箇条書きにしていた。

 ハルの手帳にはそういったつまらない(とぼくには思える)決まり事がいくつか書き込んであるのだ。

 そしてハルはときどき、その手帳を開いては決まり事を自分が守れているかどうかを確認するのだ。

 ある晴れた日の玉川上水沿いの散歩道のベンチに座って、ハルが手帳をじっと睨みつけている場面を、ぼくは何度か見かけたことがあった。

 その日も、ハルは小金井公園で日陰の下のベンチに座っていた。

 だが、手にしているのは手帳ではなく、ようやくメールの使い方を覚えたばかりの携帯電話だった。

Subject: Re:月はどっちに出てた? From: ハル
ラクダさん、ラクダさん。

『月はどっちに出ている』という映画、覚えてます。

随分古い映画ですよね。いい映画でした。サイ洋一監督ですよね。

ハルは『ハル』という映画が好きです。

深津エリちゃんが出てた映画です。

知ってますか? エリちゃんがとっても可愛いんです。

あと、『スワロウ・テイル』もよかったな。

岩井俊二監督の映画は全部観てます。

『ラブ・レター』とか。

ラクダさんはほかにどんな映画が好きですか?

ハルより


 ハルはこれだけ打つのに約1時間を費やすことになった。「崔洋一」の「崔」を出そうと一生懸命探したが、結局出なかったのでカタカナにしてしまった。ほんとうは「チェ」が正しいのか「サイ」が正しいのか、ハルにはよくわからなかった。

 けれども、お陰で少しばかり文字を打つのが早くなったような気がした。

 ハルはそのメールをラクダに「送信」した後携帯電話をバッグにしまって立ち上がったが、ふと思い出してもう一度携帯電話を取り出した。

Subject: Re:月はどっちに出てた? From: ハル
P.S. 月は頭の上に出ていました。

 それだけ打って、ハルはラクダにメールを送信した。

 見上げると、空には大きな入道雲が浮かんでいて、夏がそろそろ本格的にやってくる気配を漂わせていた。