また半年ぶりですか(汗)。終るんかいな、これ。
ハルとアイビーエムとぼくの三人は店のカウンターに戻って、トイレに駆け込んだ女の子を待つことにした。アダルトコーナーに散乱したビデオはそのまま放置することにした。片付けるとなると時間がかかるし、ケースと中身の確認もしなければならない。大変な作業になりそうだ。
店長が戻ってくるまでは店員はぼく一人なので、店の前に「準備中」の立て札を出しておいた。新しい客が入って来ないようにしてするためだ。店長が戻ってくるか、夜のバイトくんが来てからゆっくり片付ければそれでいい。どうせ午前中のこの時間帯は客が少ないのだ。
アイビーエムは、まるで店の従業員であるかのごとく、カウンターの奥の事務室の中にズカズカと入っていった。事務室にはテープチェック用のモニターや万引き防止用のモニターが並んでいる。元々狭い部屋なのだが、背の高いアイビーエムが入るとさらに狭く感じてしまう。
女の子を待ちながら、ハルはどことなく落ち着かない様子だった。カウンターに貼ってある「レンタル料金表」を見つめているようで、実はもっとずっと遠くの何かを見つめていた。ぼくは、ハルがあの女の子のことを知っていると呟いたことを思い出した。
「ねぇ。ハル」
ハルが視線をぼくの顔に向ける。が、相変わらず何も見ていないような目をしている。
「ちょっとよくわかんないんだけど」
「……」
「ハルはあの子のこと、知ってるの?」
「知らへんでんがなまんがな」
奥の部屋からアイビーエムの声がした。っていうか君には聞いてない。
ハルは、長い睫毛で瞳を隠すようにしてうなずいた。ゆっくりした動作で、カウンターの隅に積んでいた「入会案内」のパンフレットを一枚手に取る。入会金や料金システムや延滞料のことについて事細かに書いてあるパンフレットだ。薄黄色の紙に細かい文字や表が並んでいる。ハルはそれを読むでもなく見るでもなく、ただ持ち上げて裏返す。そしてそのまま山の上に重ねる。
「うん、……。……昔。小学生のとき……ね」
ハルはゆっくり話し始めた。
「あの子に似た子がクラスにいたの。……というか、たぶんあの子」
ハルのまばたきがいやにゆっくりに感じる。
「……サツキちゃんて言うんだけど」
「サツキちゃん、か」
「そう、サツキちゃん。鈴里サツキ。頭が良くって、公立じゃないどこかの中学校に行っちゃって、それっきりだったんだけど」
「そっか」
ぼくはうなずく。なんとなく、あんまり仲は良くなかったんだろうなと思う。ハルの両眉がハの字になっている。ハルはそういうところがわかりやすい。
「苦手……なの?」
ハルはちらりとぼくの目を見上げたが、すぐにまた目を伏せた。
「ちょっと……ね。サツキちゃんは覚えてないかもしれないけど……」
なるほどな、とぼくは思う。
そのとき、背後に人の気配を感じてぼくは振り返った。そこに、彼女は立っていた。
赤いスウェットの上下。上着には白地のフードが着いている。胸元にはピンクの文字で「キャメルクラッチ!!」と書いてある。キャ、キャメルクラッチ? 右胸に黄色い文字でご丁寧に「闘将」と書いてある。
トイレに駆け込むまでは裸足だったが、今はスリッパを履いている。トイレ用のスリッパだ。そのまま履いてきたのだろう。こげ茶色のどこにでもあるスリッパで、白字で「焼肉朝食」と書いてある。近所の焼肉屋から店長がもらってきたスリッパだ、たぶん。
「で、私にどうしろっていうの?」
鈴里サツキは、よく通る高い声でそう言った。不機嫌、なのだろう。そりゃそうか。こんな恰好で、しかもレンタルビデオ屋のアダルトビデオコーナーに突然現れたのだから。
「?」
ぼくは返事に困った。どうしたらいいのだろう?
彼女にどうしろというのだろう。むしろぼくが聞きたいくらいだ。「私こそどうしろと?」
「ごめんなさい」
ハルが言った。さっきよりはっきりとしたハリのある声だ。
「サツキちゃん、よね?」
「そうだけど、あんた誰?」
サツキはやはり不機嫌そうだ。ハルは一瞬ひるんだようだったが、気を取り直して一気にまくし立てた。
「私、ほら。小学校の頃、ヨガ教室とスワヒリ語教室に通ってた……覚えてない?」
サツキは何かを思い出すように宙を見上げる。
ヨガ教室? スワヒリ語?
「えっと……ほら。……五年生のときの担任だった七瀬先生、覚えてる? テンガロンハットっていうあだ名の……。あの七瀬先生、モテそうなのになぜ結婚してないのかが話題になって……、実は彼女はいるんじゃないかっていう話になって……、だったら家に盗聴器でも仕込んだらわかるかなっていう展開になって……、ほんとに仕掛けて回収しようとしたところを見つかって怒られたの……とか……」
他人ごとながら、七瀬先生がかわいそうだ。
「……それから、六年生のとき……クラスのメガネかけた六浦くんていたよね。キューピーくんって呼ばれてた子。ほら、体育の授業のとき、女子が着替えてる教室に『忘れ物、忘れ物』って言いながらよく覗きに来てた子……。あの子に、バレンタインデーのチョコレートの代わりに何か別のものをみんなで渡してみたらどんな反応するかっていう話になったじゃない? 八丁味噌とか。でもそれはちょっとやり過ぎだからっていうんで、私……」
「ああ、わかったってば。いいわよ、もう。その話は」
サツキは明らかに蔑むような目でハルを見た。話の続きが気になったものの、ぼくは黙っていることにした。心の中でキューピーくんに少し同情する。
「で、あんたがなんでこんなところにいんのよ。『久しぶりね、元気だった?』って言って欲しいとか? 冗談じゃないわ。だいたい、どこなのよここは。トイレも狭いし汚いし。わけわかんないわよ。最初から説明してよ」
サツキはイライラしながら言った。まるで『渡る世間』に出てくる嫌味な女のような口調だ。ハルがサツキのことを苦手に思っているというけれど、どうやらサツキもハルのことを苦手だと思っているようだ。
「あ、ごめん……」
ハルは申し訳なさそうに謝った。
「私も、よくわかんないけど……。サツキちゃんも『ラクダ世界』のお客さんみたい」
「は?」
サツキは全く理解できないという表情をした。まぁ、普通の人はそういう反応をするだろう。当たり前だ。わけがわからない。ぼくが最初にハルから「ラクダ世界」について聞いたときのことを思い出す。
「めくるめく『ラクダ世界』にようこそ」
ハルは臆面もなく言ってのけた。顔には笑みすら浮かべている。なんとなく誇らしげだ。
「何それ」
サツキの言ってることは正しい。賛成一票。なんだそりゃ。
「ここはラクダ世界なの。この人はトーシバさん。そして、そっちの大きい人がアイビーさん」
いつの間にか、事務室の入り口からアイビーエムが顔を出していた。
「アイビーエムだと思いましてん」
ダメだ。アイビーエムに喋らせると、元々複雑な問題がさらに混乱してしまう。
「ええと。サツキさん、だっけ? ちょっと話がややこしいので、いいかな」
ぼくは言った。できればあまりこの難しい問題について説明したくはなかったのだが、ハルとアイビーエムに任せていたらいつまで経っても状況は変わらない。うまく説明できる自信はなかったし、それ以前に自分でも何が起こっているのかさっぱりわからなかったが、そうするしか選択肢はなかった。
まずは、どこから話すべきだろうか。
「ぼくたちは今、ちょっとした厄介ごとに巻き込まれているんだ」
やはり、ラクダからのメールについて説明する必要がある。
「ちょっとこれを見て欲しい。全てはこのメールから始まったんだ」
そういうと、ぼくはカウンターの引き出しにしまっておいたラクダからのメールを印刷した紙をサツキに渡した。
ハルに頼んで、ラクダからのメールを全て自分のパソコンで使っているメールアドレスに転送してプリントアウトしていたのだ。この不可解な世界を読み解くための大切な鍵だ。
ラクダのメールはほとんどが意味不明な文章だったけれど、そこには何かしら暗示のようなものがある気がしていた。どこにそのヒントがあるのかはわからない。ラクダが何者で、どういう意図でぼくたちをこの不可解な世界に引きずり込んだのか、皆目見当が付かなかった。
いや、逆かもしれない。
そもそも、「ラクダ世界」という不思議な世界にぼくたちが本当に足を踏み入れたんだと確信したのは、むしろサツキがここに現れた瞬間なのかもしれなかった。
これまでは「ラクダ世界」という言葉は、ハルと知り合うきっかけに過ぎなかった。そこにアイビーエムがやってきて、ラクダからのメールは途絶えた。
だが、それが果たして不思議な世界だっただろうか?
確かに、どこの誰かもわからないラクダが、ぼくたちのことをメールに書いているというのは不思議なことだ。しかし、それはただそれだけのことなのだ。それ以上でも以下でもない。ラクダはなぜかぼくたちのことを知っている。逆にぼくらはラクダを知らない。
それがどうだ。サツキがここに突然現れた。何の前触れもなく、アダルトビデオコーナーにスウェット姿で現れたのだ。それも「キャメルクラッチ!!」と書かれたスウェットで。
すなわち、これが「ラクダ世界」なのだ。
ぼくはそのことを正直にサツキに話した。
ハルの携帯電話に届くようになったラクダからのメールについて。そのメールに誘われるようにして、ハルがここにたどり着いたこと。アイビーエムが加わり、ラクダからのメールが途絶えたこと。そして、サツキが突然ここに現れたこと。
サツキはぼくの話を不平そうな皺を眉間に寄せながら聞いていた。
「ほら、このメールに書いてあるラクダの相棒っていうのが、トウシバさん」
ハルが横からクチを挟む。
「いや、それはラクダが勝手に書いてるだけなんだ。俺はラクダなんて知らないし、相棒でも何でもない」
ぼくは言った。
勝手に相棒だと言われても困る。実際、ぼくは困惑していた。自分が理解していないことを人に説明するのはひどく難しい。因数分解を中学生に教えるのとは次元が違う。
しかし、世の中には報われる努力と報われない努力がある。それは仕方のないことだ。
「ラクダ世界」についても、「ラクダ」についても、サツキは頭から否定した。
「何よそれ。『ラクダ』なんてただの変質者じゃない。あんた(と言ってハルを指差す)騙されてんのよ」
「『ラクダ世界』? わけわかんないわよ。どこからどう見てもただのビデオ屋じゃない?」
「おかしいわよ、あなたたち。どうかしてるわ」
「それじゃ何の説明にもなってないわよ。じゃ、私はなんでこんなところにいるのよ。さっきまで自宅で音楽聴いてだけなのよ。……ちょっとウトウトしてたことは認めるけど。それがどうしてこんなところでこんな恰好でいなきゃいけないのよ。わけわかんないじゃない」
サツキはイチイチ文句を言った。なるほど、ハルとは性格が正反対だ。
「で、結局? あんたがこのチームのリーダーなんでしょ?」
サツキが言う。
「そうね。トウシバ、シャッチョさんな」
アイビーエムが言う。
「シャッチョさん、シャッチョさん」
ハルが調子に乗る。
ぼくは、返答に困ってしまった。否定はできない。「社長ではないけどね」なんて言ってる場合でもない。
この三人をチームと呼んでいいのなら、リーダーができるのはぼくしかいない。好むと好まざるとにかかわらず。
「じゃ、決まりね」
サツキは言った。
「あんた(と言ってぼくを指差す)が責任取って私を家まで送って。『ラクダ世界』だかなんだか知らないけど、私は忙しいの。あんたたちのバカな話に付き合ってるほど暇じゃないわ。家は三鷹の連雀通り沿い。連雀通り、わかるでしょ? ここからならすぐよ。車はあるの?」
サツキは高圧的に言った。
「免許はあるけど……。車は持ってない」
ぼくは弱った。サツキの気持ちもわかるが、どうすることもできない。いっそタクシーでも呼ぼうかと思った。
「じゃ、あなた(と言ってハルを指差す)。私に何か着替えを貸して。この恰好じゃ電車にも乗れないから。何でもいいわ。この際だから贅沢は言わない。あなたの持っている服でいいから、今から取って来て。私はそこ(と言って事務室を指す)で待っているわ」
サツキはテキパキと指図した。ハルは従順にうなずいた。
「そしてあなた(と言って今度はアイビーエムを指差す)。何か食べるものを買ってきて。お金はこの人(と言ってぼくの背中を叩く)が出すから。いいでしょ、それくらい。暑いから冷たい飲み物も欲しいわね。適当に何か買って来てちょうだい。コンビニくらい近くにあるでしょ?」
ぼくは駅前の方角を指差した。
「すぐそこにあるよ」
「じゃ、すぐに行ってきて。飲み物は、はちみつレモンがいいわね」
「は、はつむつメロン」
アイビーエムが言う。
「は・ち・み・つ・レ・モ・ン」
サツキがが言う。少しばかり目が釣りあがる。
「は、はち……みっつ……レモ〜ン」
不安そうに繰り返すアイビーエム。こっちが不安になってくる。買い物をアイビーに任せて大丈夫なんだろうか。
「俺が行って来ようか?」
ぼくが言うと、サツキは「ダメ」と即座に言った。
「あんたにはもう少し詳しく話してもらわないといけないでしょ。ほかのふたりよりはまだマシそうだから。私に一体何が起こったのか、もう少し整理させてもらわないと。……ホラ、あんたたち(と言ってハルとアイビーエムを交互に見る)。突っ立ってないで早く行ってよ。時間ないのよ」
サツキはパンパンと手を何度も叩いた。乾いた音が店内に響く。他人に命令するのに慣れているようだ。
ハルとアイビーエムは、渋々といった表情で店を出て行った。
店はぼくとサツキだけになった。事務室でサツキは折り畳みイスに文句を言いながら座り、ぼくはその正面の机に腰掛けた。
壁際のモニターで、アイビーエムがセットしたビデオが流しっぱなしになっていた。なんだこりゃ? あ。『ロード・オブ・ザ・妊婦』か。ぼくはあわててモニターのスイッチを切る。
「さて、と」
サツキは言った。
「誰が一番ラクダっぽいかといえば、あなた以外にいないわね」
これはハルでなくても付き合いにくい人だな、と正直思った。