いきなりのことでぼくの頭の中は混乱していた。「ラクダ世界」?
「あの……。すみません、いきなり」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「そんなわけないですよね。『ラクダ世界』なんて……」
そう言いながら、彼女は少しばかり残念そうな表情を浮かべた。細い眉毛がハの字に下がった。
「いえ。……その……いきりなりのことでちょっとびっくりしただけです」
ぼくは頭をかきながらこの状況について考えた。
目の前には彼女がいる。
そして聞き覚えのない「ラクダ世界」という言葉。
なぜ「ラクダ」?
一瞬、新作映画の話かとも思ったが、ここ数ヶ月の入荷作品に「ラクダ」が関係しそうなものは思い浮かばなかった。
それに、彼女は「ここはもう『ラクダ世界』なんですか?」と言った。
ここ? ここが「ラクダ世界」かって?
なんでやねん。
ここは「ラクダ世界」なんてものじゃない。ここは東京都小金井市。ビデオショップ・マリオだ。それ以上でもそれ以下でもない。
馬鹿馬鹿しい……とは思うものの、ぼくを見つめる彼女の瞳は真剣そのものだった。
「ごめんなさい。突然こんなことを聞いてしまって……。でも私、どうしていいかわからなくて」
彼女は何度も頭を下げた。
「いえいえ」
手を振りながら、ぼくは胸の奥からこみあげる笑いをこらえることができなかった。
「でも『ラクダ世界』ってなんかちょっといい響きですね」
「ラクダ世界」がどういうものなのかは全くわからなかったが、少なくとも彼女はまともそうな人に思えた。
以前彼女が『ニュー・シネマ・パラダイス』を何度も借りたことを覚えていた。『ニュー・シネマ・パラダイス』を何度も観る人間に悪い人はいない。間違いない。
「おかしな話でごめんなさい」
彼女は頬を赤く染めながら頭を下げた。
「私もその……おかしな話だとは思ってたんですよね……」
そりゃそうだ。訳わかんない。何だそりゃ。
「でもなんか。『ラクダ世界』ってなんかちょっと素敵な響きかなぁって。それで私、もしここが『ラクダ世界』だったらいいなと思って……」
いや、だから「ラクダ世界」って何なのかと……。
「失礼かなぁと思ったんですけど、思い切って声をかけてしまったんです。その……なんて言うか」
彼女はそこで、どうしようか迷っているような感じだった。
「変な話ばっかりですみません。実は携帯のメール友達からそういう話を聞いたので、確かめてみたくなっちゃったんです」
そう言いながら、彼女は携帯電話を差し出した。少し前の型だが、ぼくの持っている機種と同じ系列だったので、なんとなく操作方法はわかった。
ラクダ世界へようこそ。
何を隠そう、ここはもうラクダ世界だ。
ハル、君はハル世界から飛び出して今ラクダ世界の入り口に立っているんだ。
ここではあらゆるものごとがハル世界とは異なっている。それはまるで人生が映画的なくらいに、全てのものごとはラクダ的だ。
ただ、注意すべき点がこの世界にもひとつだけある。
この世界では必ずラクダの相棒の言うことを聞くように。相棒は今、君の目の前にいる。名前はハルが付けてくれて構わない。「ネズミ」だろうと「羊男」だろうと、好きな名前で呼んで欲しい。
月はいつも君たちの上で輝いている。安心してくれ。
ええと。何ですか? これは。このメル友、ちょっとおかしいんじゃねぇの?
さっぱり意味がわからない。「ハル世界」? 「ラクダ世界」?
「ネズミ」と「羊男」で連想するのは村上春樹の小説だけど……。どうもそういうことでもないらしい。
「ハル」というのが彼女の名前だということに気付くのにも少し時間がかかった。ぼくが知っているのは彼女の会員証に書かれた彼女の本名だったからだ。彼女の本名には「ハル」を連想するものは何もなかった。
彼女の本名から連想できるのは……そうだな……「ウシ」くらいだ。でもさすがに「ウシ」っていうのは彼女らしくない。そう言われてみれば確かに「ハル」というのは彼女にピッタリな呼び名かもしれない。
「これ?」
ぼくはハルに携帯電話を返しながら聞いた。携帯電話を渡すときに、彼女の細い指先がぼくの指に触れた。冷たくてツルツルしていた。
「そう。今届いたんです」
ハルはまた頬を赤くした。
「目の前にいるのが……その……『ムラサキ』さんだったもので……つい……」
ええと。
「ムラサキ」さん?
「あ。……すみません……」
ハルは頭を下げた。
やれやれ。
ぼくは自分の胸元の名札を見た。大きくぼくの苗字が書いてある。ぼくは名札を指差して言った。
「『シバ』です……」
「……すみません……すみません……」
ハルは何度も頭を下げた。謝るのが癖のようだ。
「いや別に。よく間違われます」
心にもないことを言った。「柴」を「ムラサキ」と読む人はそんなにいない。
「『ムラサキ』でも『シバ』でも。好きなように呼んでください」
ハルは嬉しそうに顔を上げた。
「え。いいんですか?」
「いいですよ。ぼくのことを『ムラサキ』さんと呼びたければそう呼んでください」
ぼくを見つめるハルの瞳は、ぼくの背後にあるテレビの画面が反射してか、キラキラと光っていた。
「じゃぁ私のことも『ハル』って呼んでください」
「『ハルさん』、ね」
さすがにいきなり呼び捨てにはできない。
「ダメです。『ハルさん』じゃダメ。それだと駄菓子屋のおばあちゃんみたいじゃないですか」
ええと。はい。
「じゃ『ハルちゃん』で」
ハルは首を振った。髪が揺れる。それほど長くはないが、いい香りがした。
「むしろ『ハルちん』でお願いします」
ぼくはつい笑ってしまった。「ハルちん」てあんた。
「あ……」
ハルは突然耳まで真っ赤にしてうつむいた。
「すみません、私、ちょっと……その……調子に乗っちゃって」
「はぁ……」
「その……。ごめんなさい」
そう言ってまた頭を下げる。
「いや。それで行きましょう。『ハルちん』で」
ぼくは言った。ハルは、下から覗き込むようにぼくの目を見上げた。
「いいんですか?」
「いいですよ。それで。ちょっと恥ずかしいけど」
確かに人前で「ハルちん」とは呼べないかもしれない。
「良かった……。やっぱりいい人だ……」
「え?」
「ラクダさんの『相棒』さん。やっぱりいい人でした。安心しました」
そう言われて、さっきのメールのことを思い出した。そういえば「ラクダ」って誰だ? ぼくには心当たりなんて全くない。
「いやぼくは……」
「『トウシバさん』、これからもよろしくお願いしますね」
彼女はそう言って頭を下げると、その場から逃げるようにして店を出て行ってしまった。ちょうど野球中継後のピーク時間になっていたので、他の客がカウンターに来たのだ。
「トウシバさん」というのがぼくに付けられた呼び名だと気付いたのは、ピーク時間帯の客がようやく片付いてからのことだった。
ええと。「トウシバ」の「シバ」は「柴」じゃなくて「芝」なんだけど。まぁいいや。
このようにして、ぼくはハルから「トウシバさん」と呼ばれるようになり、どうやら自分でも気付かないうちに「ラクダ世界」に踏み込んでしまっていた。