昔書いた短編ですが。ちょっと手を加えました。
どこかの投稿サイトに投稿してもいいかな、と思ってたり。
「作家でごはん!」というサイトに送ってしまいました(汗)。批判されるんだろうなぁとドキドキしてます、はい。
久しぶりの雨が庭土を打つ音がした。窓ガラス越しに、色づいた紫陽花がたくさん見える。紫陽花の葉にカタツムリがいる。雨粒が落ちてくるたびに角がヒョコヒョコと動いている。それを見ていると、なんだかとても心が和む。倉庫のトタン屋根を打つ雨音のリズムに乗って、カタツムリが踊ってるように見える。
私はゆったりとした椅子に座っている。膝にはおばあちゃんが去年の冬に編んでくれたやわらかい膝かけがかかっている。肌触りのよい毛糸の感触が暖かく私を包む。六月といっても、雨が降る日の窓際はまだ冷えるから、いつもこれをかけている。そうやってぼんやりと窓の外を眺めている。
雨に濡れた紫陽花の葉の上で踊るカタツムリを眺めている。
雨の日になると、私はいつも不安になる。
どうしても思い出せない記憶。
ざらざらと干からびた記憶。
雨はその記憶に水分を与え、私に思い出させようとする。
でも、その日のことを思い出そうとすると、頭が締め付けられるように痛くなる。
雨。
紫陽花。
雨に濡れたアスファルト。
私の頭に浮かぶ景色は、いつもぼんやりとして私をイライラさせる。
あの日のことを思い出そうとするたびに、私は何かにしがみ付きたくなる衝動にかられる。何かを強く抱きしめたい思いに駆られる。
紫陽花の葉の上でカタツムリが濡れている。まるで小さな滝に打たれているようだ。
ずろり、ぞろり、ぞろずろり。
紫陽花のギザギザの葉っぱから、今にもずり落ちそうになっている。
私はそれを眺めている。
胸が締め付けられる。
ぞろり、ずろり……。
あぶない……。
★★★
「サッちゃん、ただいま!」
アズサの子どもらしい声が、玄関に響いた。
アズサは三歳になる兄貴の自慢の娘だ。兄貴はよく「アイドルのようにかわいい声」だという。兄貴は確かに親馬鹿かもしれないけれど、アズサの声はピンと張り詰めたピアノ線のようによく響くいい声だ。
昼過ぎから降り始めた雨は、天気予報を裏切ってあいかわらず降り続いていた。玄関で雨に濡れた傘を畳みながらぼくは靴を脱いだ。一足先に靴を脱いだアズサは、ぼくの手をすりぬけて居間の窓際の車椅子に腰かけたサチコに走りよった。サチコはいつものように窓の外を眺めていた。
「寒くないか?」
居間にあがったぼくはサチコに声をかけ、返事を待たずにカーディガンをその細い肩にかけてやった。赤いカーディガン。サチコの好きな色だ。サチコは、ぼくの顔を見上げた後、視線を庭の紫陽花に戻した。紫陽花の花は色鮮やかな紫色に染まっていた。
★★★
三年前の雨の日だ。
紫陽花を見に行く途中のことだ。
サチコをバイクの後ろに乗せて、ぼくは幸せを噛みしめていた。
腰にはサチコの両腕がしっかりと巻きついていた。
「このままどこまでも走っていきたい」
サチコの声が背中越しに聴こえた。
視界を流れるガードレールの向こうに紫陽花がちらほら見える。
「紫陽花が……」
紫陽花を指差そうと、サチコの腕がぼくの腰から離れる。
その瞬間バランスが崩れた。
全てが暗転する。
何がどうなったのか、はっきり覚えていない。
目の前が真っ暗になり、衝撃が全身を包んだ。
どのくらいそうしていたかわからない。
身体がぐったりとして、頭がグラグラした。
首を上げて目を開けると、雨粒をはじくアスファルトにサチコが倒れているのが見えた。白いガードレールを背にして、サチコはピクリとも動かなかった。サチコがかぶっていたはずの赤いヘルメットが、狂ったコマのように回っているのが見えた。サチコの長い髪がアスファルトの上に、紙の上にこぼした墨汁のように広がっていた。
ガードレールの向こうに薄紫に色づいた紫陽花の花が揺れているのが見えた。
★★★
「サッちゃん、震えてるよ。寒いんじゃない?」
アズサがぼくにそう言った。
「そうだね。サチコ、向うの部屋に戻ろうか。温かいミルクを入れてあげるよ」
ぼくは優しく囁やいて、サチコの座っている車椅子を押した。サチコの右手から、何かが落ちた。
「あ、なんか落ちたよ」
アズサが、板張りの床の上に落ちたものを拾った。そして、不思議そうに首を傾げてぼくの方に差し出した。
「ほら、見て。カタツムリ。どこから入ってきたんだろ」
アズサの手の平に、小さなカタツムリが乗っていた。つい今しがたまで雨に打たれていたように、ぐっしょりと濡れている。
ぼくはふと、あたりを見まわしてみた。だが、窓はぴったりとしまっていたし、カタツムリが這ってきたような痕もどこにも見当たらなかった。
もしかするとサチコが庭から持ってきたのか。一瞬そう思ったが、ぼくは馬鹿らしくなって小さく笑った。
サチコにそんなことできるわけがない。
サチコはもう歩くことも立つこともできない。しゃべることすら忘れてしまった。あの事故のせいで、サチコは全てを失ってしまったのだ。
そう思いながら、ぼくは空いている方の手をサチコのやせた肩にそっと置いた。ぼくが全てを奪ってしまった。サチコはもう、笑うこともない。泣くことさえできないのだ。
そのとき、サチコの顔を見ていたアズサが目を丸くした。
「見て。サッちゃんが笑ってる」
アズサの声に、ぼくは驚いて車椅子の前に回り込んだ。
そこには、ぼくの顔を見上げるサチコの笑顔があった。それは、梅雨の雲の隙間から顔を覗かせる太陽のようにすてきな笑顔だった。サチコの目は、ぼくの目を見つめながら輝いていた。
サチコは窓の外を指差した。
「紫陽花がほら……あんなに綺麗」
それが、あの日以来初めてサチコが口にした言葉だった。
その日の夜遅く、サチコは静かに息を引きとった。とても安らかな寝顔だった。
★★★
サチコは今、紫陽花に囲まれた小高い丘の上で眠っている。