マンガ、映画の感想をベースに、たまにいろいろ書いてます。


ペスト

評価:5.0

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

アルジェリアの港町オランで1940年代のある年に、突如としてペストが流行する。
4月16日の朝、医師ベルナール・リウーは一匹の死んだ鼠につまずく。これがこのペストの流行の端緒だとは知る由もなく、リウーは一年以上病に苦しんでいる妻を街の外にある山の療養所に送り出すことになる。
やがて鼠の死骸が巷に溢れ、町は騒然となるが、十日ほどするとパッタリとこの現象が止まったのだった。しかし、この直後にリウーのアパートの門番が体調の不良を訴える。これがこの後オランの街を襲うペスト禍の第一波なのだった。
最初の患者が亡くなった直後、まだそれが何を意味するのか、誰も理解していない。
この物語のもう一人の語り手であるタルーが滞在しているホテルの支配人は、女中の一人が突発的な熱病にかかった際に言う。

『しかし、もちろん、これは伝染性のものじゃありません』と、彼はとり急いで補足した。

この頃にはしかし、すでに同じような熱病の症例が見られ始めていて、人々は言い知れぬ不安を感じ始めていた。とはいえ、それがペストであると最初に認識したのは医師リウーと、老医師カステルだけであった。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。

今まさに、新型コロナパンデミックに見舞われている我々にとってこの言葉は非常に説得力のあるものに感じられる。その流行の最初の頃は、この病気は季節性インフルエンザのちょっと感染力の高い類のものに過ぎないだろうと考えられていた。
現に、いまだにそういうことを吹聴する人たちもいる。曰く、インフルエンザの年間の死者数に比べて新型コロナの死者数は比べ物にならないくらい少ない。だったらそんなに騒ぐ必要などあるのだろうか。むしろ経済が死んでしまうから早く自粛を解除すべきだ、と。
果たしてそうだろうか。インフルエンザにはワクチンも存在し、罹患初期に飲めばかなりの確率で改善する治療薬も揃っている。それでも年間にたくさんの人が亡くなるインフルエンザは確かに大変危険なウイルスである。しかし一方で、新型コロナはワクチンも治療薬も現段階では存在せず、重篤化するとインフルエンザの比ではないくらいの長期間ICUのベッドや人工呼吸器、ECMOなどを占有してしまうことになる。これらの資源は有限であり、重篤な感染者の増加スピードがある閾値を超えてしまうと、それを収容する病床数が枯渇してしまうことになる。しかもそれが長期間続くとなると、新型コロナ以外でそれらの資源を必要とする患者も収容できない事態に陥ってしまうのである。これが、医療崩壊の怖さである。

話が逸れてしまったが、この作品では幸いなことに全世界的なパンデミックは発生していない。ペストは港町オランに封じ込めることに成功した。「施行された措置は不十分なもので、それはもう明瞭なことであった」であり、「流行病のほうで自然に終息するようなことがないかぎり、施政当局が考えているぐらいの措置では、とうていそれにうち勝つことはできないであろう」と評されてはいるものの、感染症の封じ込みに成功したという点においては現在の新型コロナよりはまだ希望が見える。
とはいえ、封鎖された街の中にいる人々の絶望は計り知れない。

壁の中に「追放」された人々の置かれた状況を以下の記述が端的に表している。

それはつまり、天災ほど観物たりうるところの少ないものはなく、そしてそれが長く続くというそのことからして、大きな災禍は単調なものだからである。みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶして行く、はてしない足踏みのようなものとして描かれるのである。

これはまさに我々が現在感じていることに他ならない。

そしてまた、このようにも記されている。

みんな考えるところが一致していたのは、過去の生活の便利さは一挙に回復されはしないであろうし、破壊するのは再建するよりも容易であるということであった。

ここまで記した通りこの作品は「ペスト」を題材としているが、その構造は重層的かつ対称的である。医師リウーとタルーの対比はもとより、新聞記者ランベール、パヌルー神父、貧乏吏員グラン、密売人コタールなど、主要な人物はそれぞれ特徴的であり象徴的だ。リウーがペストに向き合うことに誠実であり続けたいと考え、この手記をまとめるにあたって社会的距離をとっていたことを考慮に入れても、彼ら登場人物の行動や彼らを待ち受ける不条理とも言える運命はリウーと対称的である。

リウー自身の友とも影とも言えるタルーがやはり印象的ではあるが、タルーの対極とも言えるランベールもまた、リウーが達し得なかった光の側面だと言えよう。

リウーを軸として彼らの行動規範やその運命を眺めるとき、この物語が伝えたかったのは教訓や感染症への警鐘ではなく、世の中に蔓延る不条理と、それに巻き込まれる人々への暖かい眼差しなのではないかと思える。

この作品には至る所に胸に残る言葉がちりばめられている。

「みんな何をしてるんです、昼の間は?」と、タルーはランベールに尋ねた。
「なにもしてませんよ」

愛のないこの世界はさながら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事や勇猛心にもうんざりして、一人の人間の面影と、愛情に嬉々としている心とを求めるときが来るのだということを。

「あんまり長すぎますよ、こう続いちゃ。つい、どうにでもなれって気になるのは、きまりきったことです。ほんとに、先生、私は平気そうに見えますがね、ただ見たところじゃ。ところが、自分じゃいつだって恐ろしく骨が折れてたんです、ただ当り前にしているだけでも。それが、今じゃ、もうそれさえやり切れなくなっちまいました」

特にリウーとタルーが夜の街を眺めながらバルコニーで語るシーンがたまらない。タルーのこの言葉が、胸に突き刺さる。

僕は確実な知識によって知っているんだが(そうなんだ、リウー、僕は人生についてすべてを知り尽している、それは君の目にも明らかだろう)、誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえば誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。

まだ読んだことのない人には、今のこの時期に読んでおくことをオススメしたい一冊である。特に「町じゅうが待合室の観を呈する」ような現状においては。

この時期にこの作品を読めるということは、不条理の世の中においては比較的ラッキーなことなのではないかと思う。

「一同、脱帽!」

ほんとそれ。